海と劇場、ときどき本棚

2018年の7月に爆誕した何をするのかを模索しつづける会社「ひとにまかせて」代表のブログです

なんでもない夜だけど

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三日月、十六夜、スーパームーン

ご大層なキャッチコピーなんてない夜も

月は空にいて

薄雲の向こうにぼやけていたり

怪しい赤に染まってみたり

ふと夜空を見上げると

今夜はひときわ大きくて明るくて

なんでもない夜だけど気づけばただ一会

特別な月と

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衣装を汚すな

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少し前にネットである動画を見ました。

演劇公演のPR動画で、本番前の出演者たちがみんなでご飯を食べてるもの。

見ていて?ってなったのが、みんなが本番用の衣装とおぼしき着物姿で食事をしていたこと。

それもお弁当とかではなくて、大鍋からよそって(カレーかな?)食べてた。

 

演劇の世界では本来、衣装で食事をすることはご法度です。

専任の衣装さんがいるような現場で本番衣装で食事をしているところを見つかったら、かなり厳しく注意されます。

理由はシンプルで本番用の衣装は基本的には一着しかなく、本番期間中ずっとそれをしようするので汚れたり傷んだりすることは極力避けたいから。

タイトル写真はあるこどもがたくさん出ている作品の楽屋に貼られていたもの。

舞台経験が少ないこどもが多いので、わざわざ注意書きとして書かれていました。

それくらい衣装で食事をするのは非常識。

プロの俳優さんでもお菓子や簡単なフィンガースナックをつまむことはあっても、衣装のままで食事をすることはまずありません。

和装姿だと脱ぎ着するのが大変なのは確かですが、それならば衣装を汚さないように前掛けとかをするのが普通。

ましてやお弁当ではなく大鍋から自分で食べ物をよそうというのはぼくには信じられない光景でした。

 

一方でその動画はお客さんに向けてのPRとしてはとてもいいものでした。

作品制作中の出演者さんたちの楽しそうな雰囲気がとてもよく伝わってきます。

ただ演劇制作に関わっている人が見ると、ぼくと同じような疑問を感じる人も多いと思います。

作品の内容や俳優の技量とは別のレイヤーの話として、舞台業界の一般的なプロトコルを知らない人たちなんだなあと認識されてしまう可能性は高いのです。

お客さんに向けては効果的な動画が、業界内の人に対しては逆に評価を落としてしまう原因となるかもしれません。

 

まあ、でも、ぼくが感じたようなことを必ずしも気にしなくてはいけないわけでもありませんが。

ぼくが思ったのは、あくまでも商業演劇の世界での常識。

職業として毎日、安定して舞台公演を提供するために必要な心構え。

舞台が日常のひとたちが、日々の公演でのトラブルを極力避けるために生み出されたルールのひとつ。

劇団として俳優として、そういう場で戦っていくことを考えているのならばその世界での価値判断に合わせる必要がありますが、なにも演劇ってそれだけが絶対の基準ではありません。

「演劇で食べていく」にもいろんなやり方があって、商業演劇などのメジャーを目指すことだけが正解というわけではないのです。

 

「演劇」という言葉のなかには様々なものがつまりすぎていて、たまにうまく伝わらないこともあるって感じます。

シリアスなものから笑えるもの。華やかなものから重厚なもの。

商業的なものから参加者が自ら楽しむもの。

その全てが「演劇」という名前でざっくりと語られることにはちょっとだけ抵抗があったりもします。

 

ぼく自身はこれまでメジャーとマイナーな舞台業界の両方に身を置いてきました。

なのでメジャーの常識もわかるし、マイナーの熱量も素敵だと思います。

それぞれの「演劇で食べていく」やり方は違っていますし、そのことで常識やカルチャーも違っています。

衣装が汚れて公演前の忙しい時間をムダにすることよりも、観客にメッセージを伝えることが大事という考え方あっても構わないとぼくは思います。

それが彼らの判断なのだとしたら。

 

大事なのは自分がどこで戦っていくのかがわかっているかどうか。

戦うための自分の強みをどこで発揮していくのか。

そういうことが大切なのではって思います。

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そんな日もあるよね

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なんか、なんにもする気がおきなくて、事務所にもいかなかったし遊びにも出かけられなかった。買い物とかもする気にならなくて、ただ一日ダラダラ過ごす。

ひとり働きなのでサボると自分に跳ね返ってくるだけなんだけどね。

明日は打ち合わせが入ってるから多分なんとかなる。

 現場とか打ち合わせが入っているとそれがスイッチになることもあって。

ひとりきりで働くのって大変だ。

自分で自分をコントロールするのがいちばん難しい。

ぼくには。

まあ、そんな日もあるよね。

 

ビートルズからの人生のアドバイスっていうポストを見た。

ビートルズはそれほど聞いたわけじゃないけど、曲名や有名な歌詞とかはなんとなく知ってる。

村上龍の「長崎オランダ村」っていう小説のなかで、世界中から集まった国や文化やバックグラウンドがバラバラな人たちがキャンプファイヤーを囲んでみんなで「Let it Be」を歌うシーンがあって。

登場人物が「これだけバラバラなみんなで歌えるこの曲があってよかった」って言う。

そのくらい大勢の人がなんとなくでも知っているのってすごいね。

そして人生のどんなシーンでも使える「Let it Be」は最強なんじゃないかと思う。

kottke.org

 

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カルチャーとデザイン

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慶応大学湘南藤沢キャンパス(SFC)が2021年度からAO入試の割合を1.5倍に増やすそうです。
ふたつの学部でこれまで

一般:275人 AO:100人 だったのを、

一般:225人 AO:150人 に変更するさのこと。

これまでは4人にひとりだったのが、3人にひとり以上になりますね。

 

数年前に、当時少しだけ流行っていたソーシャルビジネスの講座に通っていました。

ソーシャルビジネスとは、社会問題をビジネスの手法も取り入れて、持続可能な形で解決する手段を創るという考え方です。

会社やNPOを立ち上げて活動している方のお話を伺ったり、事例を勉強したりしていたのですが、経営者のほとんどが東大か慶応SFC出身だったんですよね。

そして早稲田大学出身のひとがほとんどいない。

ぼくが大学に通っていたころの早稲田と慶応のイメージが完全に逆転していたのです。

こういう、ニッチで新しいアイデアにチャレンジするのって、早稲田出身者が多い印象だったんですが。

 

慶応大学と言っても実はこういう傾向が強いのはSFCだけ。

慶応大学出身者のなかには「SFCは慶応じゃない」と言う人もいたりします。

ちょっと古い2012年の記事で、そしてそれはまさにぼくがソーシャルビジネスを学んでいたタイミングでもあるのですが、慶応SFCが注目されている理由を書いたものがあります。

www.nikkei.com

この記事では、SFCの独特の雰囲気はAO入試などで「変な人」をある程度の人数取り続けていることに理由があるのではないかと述べられています。

なるほどなー。

というか、それまんまぼくがいた頃の早稲田の雰囲気みたいな気がします。

たまたま大学のなかでぼくがうろちょろしていた場所がそういうところだったのかもしれませんが、ちょっとわけのわからない人がたくさんいた、早稲田ってそういう大学でした。

そしてぼくもそんな校風にあこがれて早稲田を目指したのです。

早稲田大学には少し変わったひとたちが集まっていて、そのおかげで新しいものが生まれて、その雰囲気にあこがれたひとたちがやってきてまた新しいなにかをつくる。

そうやって自然発生的に、校風やカルチャーが何十年ものあいだ自然に受け継がれていたんです。

 

それと比べるとSFCはそうしたキャンパスに多様な学生が集まるようにデザインされていると言えるのかもしれません。

校風やカルチャーという自然に生まれたものではなくて、入試の制度や合格基準で、多様性が生まれる環境を意図的に作り出している。

それを3000人の学生が在籍するキャンパス全体で行うことは本当にすごいと思いますし、それで結果も出してきていることも尊敬します。

それに引き換え、最近の早稲田の経営側はだんだんとそういう自由で多様な校風を喜ばなくなってきているようにも感じられます。

 

早稲田大学には「無門の門」と言う言葉があります。

大学で学びたい人間を拒まないという開かれた大学の象徴と言われています。

他の大学にあるような門構えはありませんでした。

ぼくが通っていた頃にあった第二学生会館は(確か)9階建てだったのですがぼくの在学中は4階か5階までしか使用できませんでした。

建設当時、学生会館の自治権を巡って学生と当局の間で闘争があり、学生が上層階を占拠したりして内部が破損しているからということでした。

少し前のブログにも書きましたが、学生時代にぼくが入り浸っていた「大隈裏」は時空の狭間みたいな不思議な場所でした。 

blog.hitomakase.com

 

施設はどんどんとキレイになっていますが、ぼくが通っていた頃にあったそんな「隙間」や「軋み」みたいなものがどんどん大学からなくなってしまっている、そんな気がします。

無門の門は警備員が常駐していて夜になると閉じられます。

第二学生会館は取り壊されてとても立派な「大隈記念タワー」に生まれ変わりました。

「大隈裏」はまだ健在ですが、使用の規制はぼくたちの頃より厳しくなったようです。

 

大学の立場や考え方も理解できなくはありません。

そして時代の流れもあるのだと思います。

考えてみると、自然発生的に生まれたカルチャーを、システムをデザインすることで狙って作り上げたSFCのやり方もとても現代風だなと感じたりもします。

世の中が美しく、爽やかに、見通しよくなっていくことは、当たり前ですがすばらしいこと。

なんですけどね。

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フリーランスとちゃぶ台返し

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フリーランスになって25年近くになりました。

(厳密には今はフリーランスではなく会社経営ですが)

どうしてフリーランスという働かきたを選んだかというと、まあぼくはハッキリ言って割と我が強いというか協調性がないというか、自分がイヤなことはできないタイプなんです。

だから自分の責任で自分の意志を表明できる立場でいたいんですよね。

 もちろん、己の職分は理解していますし、そこをはみ出してまで自己主張するつもりはありません。

けれど自分の職分の中ではベストを尽くしたいし、ベストを尽くせない環境ならそこにとどまりたくはないのです。

もちろん、いつだって自分が正しいとは思っていません。

それでも、ぼくとしてはどうしても受け入れられないことを、世間的には間違ってるかもしれないけどぼくは受け入れられませんと意思表示してしまうのです。

だからいつでもクライアントと喧嘩できる立場でいたいんですよね。

同じ理由であまり大きなプロジェクトに関わるのも好きではありません。

自分の意志や思いを出せる機会が少ないし、何かあったときの影響の範囲も広くなっちゃうし。

最終的に、自分が腹を切れば収まる。
それと引き換えにいつでもちゃぶ台をひっくり返せる。

これからも、そういう狭い範囲で生きていきたいと思います。

今後ともよろしくお願いします。

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ぶれないスキップ

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23歳のときに、大学の先輩たちと舞台照明の会社を立ち上げた。

社長はまだ26歳。最年長も29歳。

事務の女の子も含めて東大と早稲田と慶応の出身者しかいない会社。

無駄に業界一学歴の高い会社とか言われてたっけ。

夢とか理想とか、まあ20代ならば誰でも抱くような理想や野望。

いろいろあって創立メンバーは全員離れたけど、いまでもその会社は舞台業界を生き抜いている。

 

会社立ち上げ当時は無茶な仕事もたくさんやった。

作業量と時間と予算の見積もりが甘かったこともあったし、表現と仕事のはざまを見失ったこともあった。

それでも、自分たちの好きなことを仕事にしてそれが評価されることは嬉しくて。

体力でなんとかできることならいくらでも乗り切れた。

朝からずっと身体を動かし続けて、夜中の2時に倉庫に戻ってやっと作業が終わって、そのまま焼き肉を食べて翌朝9時に次の現場に向かう。

よくそんなことができたなあって、いまとなっては感心する。

 

最近、知人が書いた増田セバスチャンさんのインタビュー記事を見た。

telling.asahi.com

きゃりーぱみゅぱみゅのMVでのアートディレクションから注目を集めて、いまではアーティスト、ディレクターとして様々や分野で世界的に活躍している。
彼を最初に見たのは、会社員時代の何もかもがとんでもなかったあるライブイベントの出演者としてだった。

その時の彼はただの若いダンサーで特に強い印象も受けなかった。

 

というか、こっちはそれどころじゃなかったので。

リハーサルの始まるまでの数日間、連日始発から終電まで働き続け、それでもタスクは全く終わらず。

照明だけではなくすべてのセクションがそんな感じて、劇場のなかで限界を超えた人たちがゾンビのように働き続ける、そんな現場だった。

予定は押しに押して、初日の開演時間が近づいてもリハーサルは終わらず。

照明デザイナーでもあったウチの社長は別の現場があったので途中で姿を消してしまった。

社長の代わりができるのは立場的にぼくしかおらず…なにも状況を把握しないままデザイナー席に座り、初対面の演出家と相談しながら明かりを作りオペレーターに指示をする。

リハーサルが終わり、初日のステージに向けての準備が始まった時点で、公演時間をもう2時間以上過ぎていた。

連日のハードワークで限界に達していたので、本番メンバーにあとのことを任せてぼくは劇場を出ました。

まだインスタレーションを作っている人がいる開演直前とは思えないロビーを抜け、入口前のファサードに集まった、2時間以上開場を待っているお客さんの冷たい視線にさらされながら、心の中でぼくのせいじゃないんです、ぼくは自分にできるベストを尽くしたんですと言い訳しながら劇場を出ていったのは、後にも先にもこのときだけの懐かしい思い出です。

 

そんなひどい現場が最初の出会いだったので、それからもセバスチャンさんと現場ですれ違ったり噂を聞くたびに、なんとなく気になってはいました。

舞台の世界とも近づいたり離れたりして、彼はどこに行くんだろうなあと。

向こうはぼくのことこれっぽっちも知らないと思いますけど。

 

スタッフって割と早い時期に経済的にもアイデンティティー的にも自立できるけどその分スケールが小さいんです。
アーティストさんはなかなか評価されない人や夢破れて散っていく人が圧倒的に多数だけど、評価されればとてつもなく遠くに行ける。

改めて彼のこれまでの歩みを見ていると、舞台からショップ、そしてアートとジャンルをスキップしながら活動している。

でも、その本質はぶれていないのかなと感じました。
客観的な評価を得ることの難しいフィールドで、自分のやりたいことに誠実であり続けて、そして評価されることはとても大変なことなんだろうなあと。

外から見たジャンルではなくて、自分の内なる欲求に正直であること。

大切なのはそういうこと。

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どうして葦笛が踊るの?

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年に何回かやってくるバレエのお仕事です。

クラシックバレエにそれほど興味はないのですが、なぜかよくお仕事を頼まれてしまいます。

日本だと、クリスマスシーズンになるとチャイコフスキーのくるみ割り人形を上演することが多いのですが、一時期はクリスマスには毎年、くるみ割り人形に関わったりもしてました。
それほどメジャーな演目なんですが、「葦笛の踊り」はくるみ割り人形よりも「ソフトバンクのCMの曲」って認識されてるんですよね。一般的には。

 

バレエはキライではありませんが、特に好きでもありません。

こういうニュアンスは伝わりにくいし誤解されやすいのですが、バレリーナを目指そうとする情熱は理解できます。

バレエの公演を見ていると美しい瞬間はなんども訪れます。

そこにあこがれ、自分も目指す感覚はとてもよく分かります。

一方で観客としてバレエ公演を見るために時間やお金を使おうとは少しも思いません。

もちろん、スタッフとして関わる限りは真摯であるべきだと思います。

それなりに勉強もするし、目の前で行われることに愛情と興味は持ち続けます。

でもね。

 

美しい瞬間、心震える場面は確かに訪れます。

でもそれはバレエでなくても出会える感動だとぼくには感じられてしまう。

だからぼくの人生の限られた時間は他のことに使いたいなあと。

全く新しいなにかを作り出そうとするアホみたいな情熱に付き合いたいなあって思ったり。

誰かが何百年も前に作って、評価が確定されたものをなぞるのって楽しいのかなあって。

まあ、人それぞれなんですが。

 

それと「葦笛の踊り」ってなんで「葦笛」なんですかね。

お菓子の国のシーンで他の踊りは基本的に食べ物が踊るのに(チョコレート、コーヒー、お茶、生姜入りパン)なんでこれだけ葦笛が踊るんだろう。

まあ理由なんてないのかもしれませんけど。

クリスマスには毎年必ずくるみ割り人形をみる人生って、まあそういうのが大切な人もいるのだろうなって思いますが、ぼくにはできないかな。

www.atelier-yoshino.com

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ひと回りして、

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先日、演劇関係の初対面の方とお会いしたとき。

ちょっと変わった企画で、普通の演劇関係者は見ないような演目で、なおかつ上演地も都心からかなり遠い場所。

どうしてわざわざ見に来たんですか?と聞かれたわけではないのですが、

「ぼく、仕事は舞台照明家ですが、それはそれとして仕事ではない場所でも演劇と楽しく関わってたいんですよね」って話してました。

あっ、そうなんだ。

いままでそんなふうに思ったことはなかったけど。

 

10年ほど前、仕事自体は順調でした。

ただ、少しずつ少しずつ何かがズレ始めていて。

仕事が安定すればするほど、ぼくはイラだっていたのです。

いま思えば、自分が舞台照明家としてちゃんとやっていけると思ったときがターニングポイントだったのかもしれません。

技術だけではなくて、現場での振る舞い方とか、俳優さんとの距離感のとり方とか、プロデューサーとの付き合い方とか。

 

20歳のころからずっと劇場で暮らしていて、それなりに周りからは評価されて、十分に生活できるだけのお金も稼げていて。

それなのに自分では自信が持てない日々が続いていました。

それが、大丈夫かもと思えたときに、ぼくのなかで何かが変わってしまったみたいなのです。

 

劇場でプロとしての振る舞いを身につけること。

20代から30代のぼくにはそれがとても大きなテーマでした。

技術職にも芸術職にも向いている感覚がなかったぼくが、劇場で暮らしていくための、それは唯一のよりどころだったのかもしれません。

 

40歳頃になんとなく劇場に自分の居場所を見つけてしまってから、本当に舞台の仕事が好きなのかどうか、自分のなかに疑問が生まれたのです。

本番に関わっても心から楽しいと思えなくて。

それでも培ってきたプロ意識のおかげで、周りからはちっともそんなふうには見えていない。

数年間、そんな時期が続いたあとで、ぼくはしばらく仕事をお休みすることにしました。

 

もう舞台の世界には戻らない。

そんな気持ちで半年間完全に仕事を休んでいろいろなことを勉強しました。

とはいえ新しい場所を見つけるのもそれほど簡単ではなくて、ぼくは舞台の世界に戻ってきました。

そして気づいたのです。

あれほどイライラして劇場にいることが苦痛だったのが、嘘のようにスッキリして楽しくなっていたことに。

 

仕事を休んでいて勉強していた時期、舞台の世界の外側をたくさん見てきました。

多分、そのおかげ。

作り手としての感覚だけでなくて、舞台を楽しむ人たちの視点を少しだけ持つことができた。

プロフェッショナルであることだけが自分の価値だと思っていて、そのことに変わりはないものの、それ以外のものの見方や関わり方がある。

そう思えるようになったのです。

 

そうすると、新しい出会いもありました。

同じ舞台の世界にいても、これまではあまり接点のなかった人たち。

仕事としては関われないけど、仕事抜きでも楽しめるものに。

 

多分、最初はそうだったんですよね。

楽しいから関わっていただけで。

やっと一周りして、もう一度その場所に戻ってこれた、そんな気がします。

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根府川の海

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中学生のとき、茨木のり子さんの「根府川の海」という詩を読んでから、「根府川」という駅にあこがれていた。

その頃、兵庫県の尼崎市というところに住んでいて、神戸の学校に通っていてた。

海が遠いってことはなかった。

学校は山の上にあったので、教室の窓からはいつも海が見えていて。

繁華街からぶらぶらと歩けば港につく。

電車でいつもより30分ほど遠くに行けば、海水浴だってできた。

海沿いの公園はお決まりのデートコースだった。

 

第二次世界大戦が終わったのが茨木のり子さん19歳のとき。

東京の大学に通っていたその頃のことを書いた詩。

なんなら授業も聞かずに毎日海ばかり眺めていた中学生のぼくは、どうして海の詩なんかにあれほど惹かれたのだろう。

 

大人になって、東京で暮らし始めた。

根府川の海はいつも心の片隅にあったけど、小田原と熱海の間というのは毎日の暮らしからは微妙に遠くて。

東京は海沿いの街だけど、ただ生きるだけだと海を感じる機会は驚くほど少ない。

だからといっと特に不便なこともないけど。

 

ある日、ふと思い立って電車に乗った。

海に沿った崖の上にその駅はあって。

なにもない駅。思っていたよりずっとなにもない。

ホームに立つと見下ろす海だけはどこまでもただ広くて。

 

 沖に光る波のひとひら
 ああそんなかがやきに似た
 十代の歳月
 風船のように消えた
 無知で純粋に徒労だった歳月
 うしなわれたたった一つの海賊箱

 

それから30年近くが経って、いまもときたま根府川を通り過ぎる。

いつしかぼくは人生の一部を海で過ごすようになった。

それでも初めて駅に降りてみたときから、海はまるで変わらずそこにある。

理不尽で、きまぐれ。

そこで生きようとするととても厳しい海も、この駅から眺めるととても優しく感じられる。

もっと海に近い駅もいくつも見てきた。

もっと澄んだ海も、もっと明るい海も。

それでもやっぱりここからの海は、ぼくにとってはどこか特別な海。

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